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知恩院
知恩院は、料亭 左阿彌から200m程、徒歩2分程に位置します。
知恩院は、浄土宗の宗祖・法然房源空(法然)が京都 東山吉水(よしみず)、現在の知恩院勢至堂付近に
営んだ草庵をその起源とします。
法然の住房は当時の地名を取って「吉水御坊」、「大谷禅坊」などと称されていました。
ここでの法然の布教活動は、流罪となった晩年の数年間を除き、浄土宗を開宗する
43歳から生涯を閉じた80歳までの長きにわたり、浄土宗の中心地となりました。
ここに法然の廟が造られ弟子が守っていましたが嘉禄3年(1227年)、延暦寺の衆徒によって破壊されてしまいます。
文暦元年(1234年)、法然の弟子にあたる勢観房源智が再興し、
四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を、下賜されました。
その後も永享3年(1431年)の火災や応仁の乱などで焼失しますが、その都度再興されています。
現存の三門、本堂(御影堂)をはじめとする、壮大な伽藍が建設されるのは江戸時代に入ってからのことです。
浄土宗徒であった徳川家康は慶長13年(1608年)から知恩院の寺地を拡大し、諸堂の造営を行いました。
造営は2代将軍徳川秀忠に引き継がれ、現存の三門は元和7年(1621年)に建設されました。
寛永10年(1633年)の火災で、三門、経蔵、勢至堂を残しほぼ全焼しますが、
3代将軍、徳川家光のもとでただちに再建が進められ、寛永18年(1641年)までにほぼ完成しています。
徳川家が知恩院の造営に力を入れたのは、徳川家が浄土宗徒であることや
知恩院25世超誉存牛(ちょうよぞんぎゅう)が松平氏第5代長親の弟であること、
京都における徳川家の拠点とすること、徳川家の威勢を誇示し、朝廷を牽制することといった、
政治的な背景もあったと言われています。
江戸時代の代々の門主は皇族から任命されました、さらに、その皇子は徳川将軍家の猶子となりました。
円山公園の歴史
枝垂桜の周りには着物を着た人たちがいすに腰を下ろし花見をしているようです。
料亭 左阿彌が所在する、京都 円山公園は、明治19年(1886年)開園しました。国の名勝に指定されていて、園域は八坂神社、知恩院に隣接し圓山公園とも表記されます。桜の名所としても有名です。
もとは、安養寺六坊や祇園感神院の坊舎などが維新の時に官収された跡地を、政府の公園設置の太政官符により公園としたものです。現在の園地計画は武田五一がまとめ、園内にある回遊式の日本庭園は、小川治兵衛が行いました。小川治兵衛は、ほかにも山縣有朋公邸の無鄰菴、平安神宮、三井家・岩崎家・細川家等数多くの名庭を残されました。
園内には、坂本龍馬と、中岡慎太郎の銅像等もあります。
京都 円山公園の枝垂桜は「一重白彼岸枝垂桜」(ひとえしろひがんしだれざくら)という品種で、初代の枝垂桜は1947年(昭和22年)に枯死したため、現在は2代目が植えられています。花見のシーズンにはライトアップが行われ、深夜でも花見客の姿が見られます。なお、二条駅前(千本通側)に植えられている枝垂桜は円山公園の枝垂桜3代目です。
敷地内には、円山公園音楽堂があり、約3,000人を収容可能な屋外ホールとして利用されています。中央の池泉回遊式庭園の周りには料亭や茶店が点在しており、過去には乗馬場もありましたが、現在は廃止されています。
高台寺
高台寺は、料亭 左阿彌から700m程離れた場所にあり、9分程徒歩でかかります。
高台寺を、正しくは高台寿聖禅寺といい、豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために、
秀吉夫人の北政所(ねね、出家して高台院湖月尼と号す)が,慶長11年(1606)開創した寺であります。
寛永元年(1624)7月、建仁寺の三江和尚を開山としてむかえ、高台寺と号しました。造営に際して、
徳川家康は当時の政治的配慮から多大の財政的援助を行なったので寺観は壮麗をきわめたといいます。
現在、旧持仏堂の開山堂、霊屋、傘亭、時雨亭、表門、観月台等が国の重要文化財に指定されています。
秀吉と北政所を「霊屋(おたまや)」に祀り、北政所像の下はその墓所となっています。
須弥壇(しゅみだん)と厨子は華麗な蒔絵装飾が施され、桃山美術を代表する「高台寺蒔絵」として知られます。
開山堂を中心に東西に広がる池庭は小堀遠州作と伝えられます。
尚、豊臣秀吉夫人(北政所)は天正16年(1588)に従一位に序せられ
慶長8年(1603)に後陽成天皇より高台院の号を賜り寛永元年(1624)9月6日、76才で亡くなられました。
出典: 高台寺HP: http://www.kodaiji.com/about.html
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